眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「恐怖の重層」 感想

遺跡発掘中に見つかった奇妙な形の地層。人の横顔が積み重なったようなその異様な地層の下には、子どもの骨があった…。時が流れて2017年。父の十三回忌の法事を終えた麗実に、恐ろしい事態が発生する。
先日のEテレ「漫勉」にも登場した、伊藤潤二の新作。「漫勉」で扱われていたのは、まさにこの「恐怖の重層」で、作品中の見せ場のコマを実にていねいに作業している様子を見られたのが嬉しい。皮が何重にも重なって人が作られている呪い(そもそもの発端になった遺跡の方の話はとっかかりに過ぎず、一体何が原因の、どういう呪いなのか判らないままというのも不気味)、という発想の尋常でないところも恐ろしいのだが、それを実際に見せていく過剰な描き込みが圧倒的な迫力。

と同時に、微妙な笑いが生じてくるのは、潤二節とも言えるところ。麗実の顔に標識がぶつかっている場面の、あまりにもストレート過ぎる見せ方などはその典型。ひどいジョークを聞かされたような乱暴さがあって、乾いた笑いが生じる。しかもめくれた皮というには、ちょっと奇妙な表現(皮に目もついている。顔というマスクがめくれた感じ)にも、戸惑いと同時に笑いが浮かんでくる。が、その先に異様な状態が描かれるに連れて、作者独特の世界が広がっていくのが素晴らしい。

残虐度のレベルで言えば、「漫勉」に出てきた場面よりも、そこに至るまでに描かれる場面の方がより衝撃度が強い。それは、常軌を逸した人の行動のおぞましさが想像出来るからで、ここが伊藤潤二のしたたかさだと思う。ともすれば自由過ぎる発想を、下世話な人の感情を描くことによって、リアルな地平から離さないのである。痛覚や嫌悪感がきちんとこちら側に残される。漫画と現実を、痛覚や嫌悪感で繋ぐと言えばいいのだろうか。感覚の生々しさこそが、生きている実感に繋がるものである。その皮膚感覚を常に身近に置くことにより、尋常ならざる世界を広げながら、世界をこちらに引き寄せる剛腕。さまざまな特異な設定を、現実と結びつけることに失敗すれば、作品は作者だけの愉しみになってしまうが、その辺の匙加減の絶妙さが、伊藤潤二っぽい。

重層化する人間、というのも、増殖する「富江」と共通するイメージ。伊藤潤二の根っこの部分に、「増える」とか「重なる」ということに関して、思うものがあるのかもしれない。

また、美醜についての物語でもあった。母親に「ブスだから」と言われた娘が、それゆえに、この地獄の当事者にならずにすむというのも皮肉めいている。美醜の問題は、楳図かずおがしつこく描いたテーマでもあるが、美と醜は、生と死の言い換えでもあるんだろうな。それを際立たせるために、だから彼らの漫画の女性はあんなにきれいなのだな、と。

「漫勉」のサイトに、番組では放送されなかった対談の一部が掲載されているが、伊藤潤二作品の肝(気になる部分)について語られている。浦沢直樹、ちゃんと読んでるな、と(→何様だ)。

楳図かずお作品についてもいくつか感想を書いています。例えば「神の左手悪魔の右手」など。よければ。