「恐怖の重層」 感想
と同時に、微妙な笑いが生じてくるのは、潤二節とも言えるところ。麗実の顔に標識がぶつかっている場面の、あまりにもストレート過ぎる見せ方などはその典型。ひどいジョークを聞かされたような乱暴さがあって、乾いた笑いが生じる。しかもめくれた皮というには、ちょっと奇妙な表現(皮に目もついている。顔というマスクがめくれた感じ)にも、戸惑いと同時に笑いが浮かんでくる。が、その先に異様な状態が描かれるに連れて、作者独特の世界が広がっていくのが素晴らしい。
残虐度のレベルで言えば、「漫勉」に出てきた場面よりも、そこに至るまでに描かれる場面の方がより衝撃度が強い。それは、常軌を逸した人の行動のおぞましさが想像出来るからで、ここが伊藤潤二のしたたかさだと思う。ともすれば自由過ぎる発想を、下世話な人の感情を描くことによって、リアルな地平から離さないのである。痛覚や嫌悪感がきちんとこちら側に残される。漫画と現実を、痛覚や嫌悪感で繋ぐと言えばいいのだろうか。感覚の生々しさこそが、生きている実感に繋がるものである。その皮膚感覚を常に身近に置くことにより、尋常ならざる世界を広げながら、世界をこちらに引き寄せる剛腕。さまざまな特異な設定を、現実と結びつけることに失敗すれば、作品は作者だけの愉しみになってしまうが、その辺の匙加減の絶妙さが、伊藤潤二っぽい。
重層化する人間、というのも、増殖する「富江」と共通するイメージ。伊藤潤二の根っこの部分に、「増える」とか「重なる」ということに関して、思うものがあるのかもしれない。
また、美醜についての物語でもあった。母親に「ブスだから」と言われた娘が、それゆえに、この地獄の当事者にならずにすむというのも皮肉めいている。美醜の問題は、楳図かずおがしつこく描いたテーマでもあるが、美と醜は、生と死の言い換えでもあるんだろうな。それを際立たせるために、だから彼らの漫画の女性はあんなにきれいなのだな、と。
「漫勉」のサイトに、番組では放送されなかった対談の一部が掲載されているが、伊藤潤二作品の肝(気になる部分)について語られている。浦沢直樹、ちゃんと読んでるな、と(→何様だ)。