眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

アル・パチーノ劇場 「シー・オブ・ラブ」

フランク(アル・パチーノ)は、勤続20年の刑事生活を、このまま続けていくのか?というミドルクライシスに直面して、精神的に非常に不安定。今は独り身で、元妻は、同僚刑事(リチャード・ジェンキンス)と再婚。なのでその同僚に、何かと嫌みを言い、喧嘩を吹っ掛けるような真似をする、困った刑事である。折から発生している、全裸で後頭部に銃弾をくらった連続殺人事件を担当するフランクは、捜査の過程で知り合ったヘレン(エレン・バーキン)と親しくなるうちに、彼女が事件の犯人ではないか?と疑い出す。彼女と出会い、愛し、そして疑い、身もだえする刑事の前に現れた真相とは…。

ドラマの核は、「都会に生きる孤独な人々」である。犯人探しのために警察が張る網は、恋人募集の広告。そこにやってくる女性たちは、理由はどうあれ、己の孤独を癒す相手を求めている。ある年配女性は、印刷業と嘘をついておとり捜査中のパチーノの対応のそっけなさに傷つく。じゃあまた連絡するよ、というパチーノに、絶対にしないわ、という彼女の表情。そのあとの女性は、あんたの目は印刷業者の目じゃない。刑事の目よ、と見抜かれしまう。次に現れたヘレン(初登場シーンが、映画が始まってから45分経っている)にも、あなたは(要は)タイプではない、と言われてしまう。店の外へ出て行ったヘレンの姿を、窓越しに見せるカットがあるが、その不満そうな顔。刑事の目とは、つまり、相手の心を見透かそうとし、疑い、値踏みし、裏を読もうとする、そんな目ではないか。彼女たちは、それを察知する。それは彼女たちが超能力者だからではなく、孤独であることに敏感だからだ。パチーノの、相手を見下したような目に、深く傷ついているのだ。

パチーノは、刑事と言う職業ゆえ、ということもあるが、自分も孤独を抱えながら、それに気付いていないようである。あるいは、気付かないふりをしているのか。認めてしまうと、彼女たちのように、自分を憐れむことになりかねない。そこに踏み込むと、後戻りが出来ないのではないか、という怖れ、か。その葛藤は、落ち着きなくイラつく(いつもの)演技、容貌の荒み方(70年代後半から80年代は、映画俳優としては不遇の時期で、この作品が久々の復帰作だった)、というパチーノ自身の生き方が反映されて、結果として主人公のキャラクターを成立させている。彼が演じるフランクには、人気が落ちていく中で、パチーノ自身が覚えたであろう感覚(焦燥、孤独、傲慢、など)が、滲んでいるのではないだろうか。

フランクと再会したヘレンは、前回と、どこが違うと感じて、彼に近づいたのだろう。刑事は最初、彼女に気付いていない。単純に、きれいな女がいる、という程度のようだ。つまりヘレンにしてみれば自分に対する、純粋な興味がある、という目を彼がしているのを見抜いた、ということか。裏返せば、そこには、フランクの孤独が見えたということなのかもしれず、フランクも見抜かれたと気付いたのかもしれず、だからこそ彼は溺れるように彼女の虜となっていく…。人は弱い。だが、弱さも人の本質だ。それを認めるか、認めないかで、人生の開け方は変わっていくのだろう。

よって、孤独を抱える者同士が、都会の片隅で出会い、恋に落ちる、という物語が、ドラマの主軸となる。他に、フランクとコンビを組む、別分署のシャーマン(ジョン・グッドマン)とのやりとり、彼の陽性なキャラクターの楽しさ。同僚刑事たちと、容疑者に接近するための詩を考える場面。そのあと、フランクの父が詩を読みあげる場面。ジェンキンスとの、しょぼくれたやりとり、和解の場面。何かと顔を出す、ジーリ(クリティン・エスタブルック)の可笑しみ。レストランでの捜査中、最初にあった年配女性が、実はずっと店の奥にいて、フランクの様子をうかがっていたことが判る場面。目に涙を浮かべて店を出ていく彼女と、それに気付いたフランクの表情…。それらの印象的な場面は、犯罪ミステリとは、もはや何も関係がない。

また、ポルノショップが煌々と明かりを灯し、フッカーが客引きのために渋滞の車の列の間を歩いている様子。おとり捜査のための、待ち合わせ場所のレストランの、雑然として騒々しいさま(こういう店が、当時、流行っていたのかなあ)。ヘレンが勤める靴屋やその周辺の、少々グレードの高そうな様子など、当時のニューヨークの色々な側面。冒頭の、犯罪者を一網打尽にする警察の罠(遅れて入って来る赤いTシャツの目立つ男はサミュエル・L・ジャクソンだった)は、実際に行われた有名な捜査。そういうことも取り入れている脚本は、当時のニューヨークの風俗を多分に意識している(今で言えば、出会い系サイトに相当する恋人募集広告も、その一端であろう)。むろん、バーキンのスタイルのよさを強調させるだけでなく、80年代の流行であった、あのケバめのメイクやファッションも含めて。

しかしながら、「シー・オブ・ラブ」はちっとも効果的な使い方がされていない。この曲の存在が、事件に何の関係もない…いや、ないわけではないが、意味が薄い。それに、ヘレンと事件が、画面上ほぼ絡まないことも、サスペンス映画としては致命的。雰囲気はうまく醸成されていると思うのだが(撮影のロニー・テイラー、音楽のトレヴァー・ジョーンズの仕事ぶりも良い)、盛り上げるための段取りは、色々置き忘れて来た感じがあった。そのため、サスペンス要素は、本当にこの映画に必要だったのだろうか、とさえ思える。ラストシーンの、パチーノとバーキンの会話をみていても、とてもたのしげだ。恐ろしい事件があったようにも思えない。何年もたてば、ジョン・グッドマンの歌声を思い出す方が、容易であろう。ニューヨークの風俗を背景に、孤独な人たちの出会いを描いた人生ドラマという視点で見た方が、面白くみられるのではないかと思う。

追記(2015.9.6):「シー・オブ・ラブ」が効果的に使われていない、と書いているが、曲そのものが事件の核心を語っている。この歌詞に、思い込みの激しい人物の心情が乗せられている。そういう意味では重要な小道具ではあるが、フランクやヘレンがその意味に気付くことはない。歌詞を知っている観客だけが、この歌が使われた理由に気付くのでは、サスペンスの小道具としてはあまり意味をなしていないと思う。

SEA OF LOVE / 監督 ハロルド・ベッカー / イマジカBSで。