眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

バイロケーション 感想

再見して、ああそういうことなのか、と今更ながらに納得したりしている。なので、自分で気になったところを整理してみた。前にみたときの感想はこちらに

すべてネタばれ

冒頭部に出てくるのは、桐村忍。彼女の心のうち…。「どうしてこんな絵しか描けないんだろう」という苦悩の言葉。普通、これはいらない。なくても、彼女は、どうやらうまく描けていないらしいことが判るからだ。次の場面で、ドアを開けて高村勝(浅利陽介)と会話するのは、後の高村忍(バイロケーション)。ここに「彼との出会いが、わたしの人生をかえた」とモノローグが入る。これは当然、高村忍の声。でもみている側は、すんなりと、絵を描いている女と、玄関に出て来た女は同一人物だと思う。過剰な説明としてのモノローグではなかったのだ。モノローグは、高村を桐村と思わせるために使われる、ひっかけのための手段だったのだ、と今更気付く。

勝と高村忍がじゃれあう場面での「あたしがどうするかは、あたしにしかわかんないの」という台詞も、高村忍の運命を思うとなんとも切ない気持ちにさせられる。

桐村が、加納に連れて来られるのが、飯塚邸。右の部屋はカーテンが赤。オリジナル達が入る。左の部屋はカーテンが緑。バイロケ達が入る。左の部屋にだけ加賀美(高田翔)がいる。

飯塚は、桐村さんとも、高村さんとも言わない。「忍さん」という。桐村が独身、高村は既婚、と名字が違っていることを観客に知らせないため。脚本は、また巧妙に桐村に自己紹介をさせない。「なんでわたしの名前を知ってるの?」と驚く桐村に、「あなたのことは前からマークしていた」と飯塚は答え、不審に思った桐村が部屋を出るため、自己紹介のくだりはうやむやになる。因みに、飯塚はやたらと忍の肩に触るが、桐村の場合は右肩に、高村の場合は左肩に、高村が真相を知る場面では、両肩に手を置いている。

門倉(酒井若菜)に送ってもらう車内で、門倉が桐村に質問するところ。「(仕事は)何してるの」の次に「結婚は?」と問いかけたところで、門倉のバイロケが出現したことで、その質問の答えもまたうやむやにされる。いい感じでごまかしていて、しかも全く不自然に思えない。さらに門倉の「あいつらはあなたの大事なものを奪いにやって来る」の台詞の後、この場面に流れる緊迫感あふれる音楽が消えそうな、最後のところから、勝の姿を重ねるところもうまい(編集は村上雅樹)。そして「わたしの大事なもの…」という台詞と共にエレベーターから降りてくるのは、高村という繋ぎ方。そして翌日、絵の前に座る忍から再び「わたしの大事なもの」という台詞が出てくるが、これを言っているのは、桐村。この辺の、台詞の持って行き方、ミスディレクションの取り方、うまし。徹底して桐村=高村であると思わせるための作劇。二回目、三回目をみる楽しさとは、こういうこと。

加納のバイロケが暴走してテレビで報道されている。飯塚邸に皆集まったのは、緑のカーテンの部屋。ここにいるのはバイロケたちということ。暴れまわる加納のバイロケをどうするか、というところで、飯塚が「殺す。殺せば二度と出現しないかもしれない」と言う。このあとメンバーは、廃工場みたいなところに移動する。ここに加納のバイロケが出現。目がぐるっと回るので、後から出て来た方が間違いなくバイロケ。ということは、緑の部屋にいた加納はオリジナルだった、ということになる。オリジナルの加納は、当然加賀美を知らず、突然現れた彼に「お前は誰」と問う。で、ここが恐ろしいのだが、初見時は、加賀美が加納のバイロケに鉄パイプで殴りかかる、と思ってみていたが、実はオリジナルと確認したうえで殴りかかっているということ。飯塚の言葉は、正確には「(オリジナルを)殺す。殺せば(バイロケは)二度と出現しないかもしれない」ということだったのだ。オリジナルを殺そうと思っていたことは、あとで飯塚自身の口から語られるが、改めて見直すと、狂気の沙汰の行いにぞっとする。また、加賀美も、後で飯塚のことを、「あの人は壊れている」と口にする。

この場面は、オリジナルかバイロケかを判断するのにどうして鏡を使わないんだ、と(映画にまんまと誘導されて)みている多くの観客が思う所でもある。確認していれば、オリジナルを殺すことはなかったではないか、と。鏡を出さない理由はふたつ(たぶん)。
ひとつめ。実は、バイロケは鏡に映らないと言いながらも、バイロケ自身の主観だとみえる、ということが後半で判る。つまり、バイロケ組3人(御手洗、門倉、高村)に確認させたら、どっちも映ってみえてしまう。それをこの段階で映像でみせると、ネタばれしてしまう。まあ、飯塚か加賀美の主観で鏡の中をみせれば、どっちがどっちかは判るのだが…。ここはちょっと苦しいところか。
ふたつめ。飯塚と加賀美は、オリジナルを殺す気で来ているので、あえて鏡を出すつもりはないということだろう。無用の混乱を避け、言いくるめてでもオリジナルを殺すように持って行きたい、と。ここで恐ろしいのは、自分たちで人を殺すことは避けたい。そこで、バイロケである御手洗、門倉、高村の誰かに殺すようにしむける、という周到さ。バイロケになら、人を殺させてもいいという判断なのか。結局、射殺するのは御手洗だが、こういうことをさせた飯塚という人間に対して憎悪を募らせても、何もおかしくはない。御手洗は、オリジナルとバイロケが和解するというただひとつのケースになるが、話し合ううち、良いように利用されたと思ったのだろう。結果、飯塚を刺すのも、判らなくはない。

大学の講義中に、御手洗がバイロケに襲われる。このとき飯塚にかけた電話では、メンバーの名前は「飯塚、加納、門倉」としか言っていない。加賀美の名が出るかどうかだけが問題なので、桐村の名前が出なくてもいいのかもしれないが、ここもみていてちょっと苦しいところ。

加賀美が、高村に、絵と夫のどっちが大事かと訊く場面。ここで加賀美がずっと巻いていたマフラーを取る。口元に傷跡がある。このあと、彼はオリジナルの桐村とも会うことになるが、本来ならば、バイロケにしか存在を知られてはならない。そこで、あえて高村に傷を見せることで、差異を作った。高村しか知らない秘密を…。という話しを、以前どこかのブログで読んだのだが…。なるほど、そういうことか。だが、どうしてこの局面で、と思う。どうしてこの場面で傷を見せたのか。隠しているものを見せる。つまり、あの場面で、彼は自分をさらけだしたということだ。何故、さらけだしたのか。高村になら、みせてもいい。高村には、みておいてほしい。高村になら、この傷の意味が判るはず…。その決断によっては、傷つくことがあるかもしれない、というような…。まあ考え過ぎだろうが、あのタイミングというのがどこか腑に落ちない感じがして…。

差異、ということでは、桐村に男性経験がない、という事実は結構な重さだと思った。外見からだけでは判断出来ないところに生じたそれも、差異はない、と言えるのか。飯塚は、受け入れればいいと言い、加賀美は、差異はない、と言い切る。しかし、現実を生きている桐村や高村にとって、それは言葉だけのこととしか思えないのではないだろうか。無理を通そうとする傲慢な言い分は、現実の重みの前には、あまりにも軽い。彼ら自身が、自分の言葉を信じ切れていなかったのではないか。だから彼らは、この戦いに負けてしまうのかもしれない。飯塚は刺され、加賀美はそれを虚しく見つめることしか出来ない。そして、そうなってしかるべきだ、と思っていたのではないか…。そう思えば、彼らには生きている者の気配が希薄ではなかったか。彼らの言葉は、無理と判っているからこそのものではなかったのか。一番の絶望に取憑かれていたのは、バイロケーションのように消えたかったのは、彼らだったのかもしれない。

映画が描いてもいないことを書くのは、批評にしろ感想にしろ、邪道だと思っているのだが、一方で、それが映画の愉しみだとも思っている。が、それにしても、まとめきれなかったな。徐々に修正していこう。