眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

「出版禁止」 感想(ネタバレ)


長江俊和・著/新潮社(2014)

〈あらすじ〉著者である長江俊和は、さる知り合いから、掲載直前でとりやめになった原稿の存在を知らされる。あまりにも興味深い内容だったため、長江は、各方面との調整を取り、4年をかけて出版にこぎつけた。若橋呉也というルポライターの、入魂の雑誌連載になるはずだった原稿は「カミュの刺客」といい、7年前に心中事件で世を去ったドキュメンタリー映画監督・熊切敏は、実は謀殺されたのではないか、という疑問から発した内容だった。若橋は生き延びてしまった心中相手・新藤七緒へのインタビューを行い、「心中」に至る気持ちの流れ、その先に何があるのか、ということを知ろうとするが…。

昨年「王様のブランチ」で取り上げられ、その途端に書店から消えたと言われるほど、多くの人たちの関心を読んだ話題の本を、今頃になって、やっと読む…。

以下、ネタばれ前提での感想を書いています。



若橋が、文章にしのばせた叙述的な引っかけが何よりも読みどころではあるのだが、この作品が話題になったのは、作品内の説明だけでは判らない部分の答を求めてネット検索に精を出すタイプの内容だったからだろう。特に話題にあがるのは、いわゆるアナグラムの部分。「わかはしくれなり」と「しんどうななお」という名前。それぞれ、文字をあれこれと入れ変えてみると、別の意味が浮かび上がる…というもの。そして、若橋が意味を取り違えていた「視覚の死角」という言葉の、本当の意味。その意味が判らなければ、「わかはしくれなり」のアナグラムの正解に行きつくのにしばし時間がかかると思われる。そういう意味では、「視覚〜」の方が、作品の作りとしては重要。アナグラムは、それをより強固に確定させる言葉ということになっている。

面白いのは、アナグラムを読み解いたところで、事件の真相は結局見えはしない、ということである。心中事件については、後半で明かされることが真相だろう。七緒が、永津への恩義ゆえ、あるいは永津の指示により、熊切に近づき、殺した。その七緒を殺したのは、若橋。しかし、彼が殺人に及ぶ動機は良く判らない。若橋は自分が刺客であることを途中で自覚し、その一方で七緒に惹かれて行く。刺客としての使命を果たしつつ、それを心中として昇華させる。彼の、心中(だと思っている行為)に至る心理的な経緯は、いくら説明されても、さっぱり意味が判らないままなのである。どうにも掴みどころのないまま。

結局、誰が若橋を刺客として送り込んだのかも判らない。おそらくは、神湯尭と、彼の手先となって動く「カミュの刺客」によるもの。だが、どの時点で、若橋は刺客として選ばれたのか。そもそも、この記事を書かないか、と声をかけて来た知り合いとは何者か。「事件の真相を知りたがっている人がいる」…知りたがっている人とは、神湯のことではないのか。というよりも、真相は既に判っていると考える方がいいのかもしれない。実際に行動する(殺しを行う)者を探している、ということなのだろう。そして若橋は、ある時点で、自分のするべきことに気付く。それは、政治結社の高橋に会い、「視覚の死角」(「刺客の刺客」)という指摘を受けたあとのこと。

若橋は、数年前に大病を患った、という過去がちらりと明かされる。何の病気だったか、それが彼の人生にどういう影響を与えたか、ということは、はっきりしない。その病気によって、彼の人生プランは大きく変わったにもかかわらず。熊切の心中事件は7年前。若橋の病気は、数年前。事件の真相(七緒による殺人)に気付いた者たちは、何年も前から種をまいていたのではないか。若橋の病気は、事実だとしても、その治療時に何らかの洗脳じみたことが行われていたとしたら。神湯は日本を裏から支配するような存在である。手のかかっている病院などいくらもあるだろう。そして3年前に、七緒の母が死亡。七緒はひとりで田舎に引っ込んで暮らしている。彼女に接触しやすくなった今こそが、眠らせていた男を覚醒させるときだ、と彼らが判断したとしたら。ルポを書かないか、とそそのかす。取材に関しての費用は出す。その調査の過程で、高橋に会いに来るのは間違いない。本来、高橋は表に出る人間ではなく、普通は会うことが出来ない人間なのである。が、あっさりと取材の許可が下りるのも変な話しだろう。そう思って読めば、高橋の若橋への対応の柔らかさは、全てが判っている人間の対応そのものではないかと思えてくる。この高橋との面会で、若橋は、催眠術にでもかかったような感覚に囚われている。実際、かけられたのだ、「視覚の死角」という呪いの言葉を。それこそが、彼を覚醒させる言葉だったのだ。実に遠回りな計画のようにみえる。しかし彼らが深く介入しない(直接的に動かない)で事を進めるには、それでいいのだ。事は、神湯尭本人にも、カミュの刺客にも、何も関係がないと思わせないといけない。

だから若橋には、あくまでも自分の考えで行動しているのだと思ってもらわなければならない。若橋に、自分の役割を理解させても、することは殺人である。それを素直に受け入れさせるにはどうするか。どうすれば、素直に殺させることが出来るか。それが「心中」という方法である。若橋が殺人に違和感を抱いても、七緒と心中するのだと思いこませれば良いのだ。結果として殺すことが出来る。心中することで、七緒を殺すのだ。そのためにルポライターである彼が選ばれた。取材をするうちに、七緒に惹かれて行ったという筋書きのために。若橋の「心中」の理屈にどうも納得がいかないのは、彼が信じている「心中」が、何者かによって洗脳された結果の計画に過ぎないからだ。計画をたくらんだ者たちにとって「心中」は、所詮、殺人であることをごまかす上塗りの部分でしかない。若橋の書いている文章が、どうも上っ面だけのようにしか思えないのは、でっちあげられた感情をまとめただけだから、とも読める。が、若橋自身は、洗脳されているので自分の行為を心中と信じ切っている。偽りの感情が、本物にすり替わっている。彼にとって、あれは本当に殺人ではないのだろう。

もしもそうだとしても、若橋は、最後の告白において、殺しを依頼した存在のことをちらりと書き、自らがその手先であると刻印(「われはしかくなり」)している。この自覚は何を意味しているのか。自分が刺客(=殺人を行う者)と判っていながら、自分の行為は殺人ではないと言い切れるのは何故か。色々と解釈は出来るだろうが、ここはひとつ、実は洗脳は解けつつあったのではないか、と思いたい。にもかかわらず、彼は行動を曲げなかった。七緒への恋慕の情は、本物になってしまったのかもしれない、と。ゆえに、熊切との心中が偽りであったとしても、どうしても許せなかったのかもしれない。だから、あの心中を上書きしようとした。自分の七緒への思いの方が本物だと言わんがために。自分が刺客であると刻むのは、半ば洗脳の解けた人間の、皮肉を交えた諧謔的な思いの表れのようにも見えて来はしまいか…。

だが、本当に愛した女のことを「しんどうななお(「どうなしおんな」)」などという名前にするだろうか。やはり、心の底までもが洗脳されていたのではないだろうか。考えれば考えるほど、混沌としてくる。果たして一枚上手だったのは、神湯尭とその手先だったのか。それとも若橋呉也だったのか。新藤七緒は、生きたかったのか、死にたかったのか。彼女が残した遺書めいた文章の本音はどっちだったのか。結局、真相は判らないままなのだ。

曖昧なすき間が色々とあるが、それをすべて埋めることは不可能だろうし、著者もそこまでのことは考えていまいが、自分なりには決着がついたので、これで良しとする。愉しい時間であった。

また、長江俊和というと、やはり「放送禁止」シリーズが名高いが、その中でも特に好きなのが3作目「ストーカー地獄編」。これは本当に、最後まで真相が判らなかった。最後、というのも本当に最後の最後というか、オンエア時は番組終了直前に聴こえる声(音)から、真実を想像するくらいの、ぎりぎりのところまでねばった作りなことに驚いたもの。とはいえ、これもずいぶん前の作品なので記憶があやふやになっているのだが…。

他にはこんなのもある。

「あっ」と驚く結末小説、というジャンルにおいて、未だ語りつがれるのが筒井康隆ロートレック荘事件」。「出版禁止」のようにねちねちと想像を逞しくする小説とは違い、痛快な「そういうこと!?」オチに驚きたい方に。ネタバレ感想を書いております

さらにミステリ的な刺客と言えば、ゲームブックというジャンルも。人狼村からの脱出」の、ひらめきがなければまるで先に進めない過酷な出題に頭を悩ます苦しみと愉しみ。ぜひ挑戦を!感想はこちら。ネタバレしていません