眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

羊たちの沈黙 感想

〈あらすじ〉FBI訓練生のクラリススターリングは、収監されているレクター博士に面会するようにとの命令を受ける。難航している猟奇殺人事件について、レクターから助言を乞うためである。レクターは、けんもほろろな対応だったが、同房の収監者のクラリスへの非礼に激怒。すまないといって、謎めいたメッセージを伝える。

久しぶりに見た。そこで(自分で)気づいたことがいくつかあるので、とりとめのないことばかりだが、メモがてら感想を書いておきたい。
もちろん、ネタバレしています。



1990年の映画ということに、まず驚いてしまう。26年前ですよ。当時生まれた赤ん坊も、いまや立派な大人になっている。ということは、当然ながら、劇中の人々は26年分若いわけで、公開当時とは印象がまた変わる。

クラリスを演じるのは、ジョディ・フォスター今みると、すごくかわいい。28歳という実際の年齢もあるし、おそらく擦れすぎていない女性を意識して演じているということもあるとは思うのだが、まだ少女のような面影がある。特に冒頭部の、黙々と走っている姿と、呼び戻されてFBI本部内に入っていく辺り。ジョディは、公称としては身長161センチ程度となっているのだが、アメリカ人女性としてはどちらかと言えば低め。しかし実際にはもう少し低いのではないだろうか。見た感じ、おそらく160センチないと思う。このプラス1、2センチというのは、区切りギリギリあたりにいる人間がよくやる(159の人は161に、169の人は171に)ことなので、ジョディも下駄を履いていると思うのだが、この背の低さは、少女っぽさと合わさって、クラリスのキャラクターを浮き彫りにするのに思わぬ効果を及ぼしている。もしかしたら周囲の俳優たちは、意図的に身長のある人たちを配して、ジョディの小ささを際立たせていたのではないか、という風にも見える。あくまでも訓練生という立場で未熟な存在であり、現実社会に出切っていない少女が、大人たちの間をよろよろふらふらしているように見えるのである。色をかなり抑えたトーンの冒頭部と、明るく落ち着いたトーンのラストの任命式(?)とでは、印象はまったく違い、もちろん恐ろしい事件を解決に導くという役割を果たした結果でもあるが、そこには少女と大人の差がはっきりと見て取れる。

またその少女のような面影が、上司のクロフォードやレクターに庇護したくなる感覚を憶えさせたのかもしれない。何よりもクラリスは幼いころに父を亡くしている。二人の男は、年齢的に言っても、父の存在に置き換えらえる者たち。双方に対してクラリスが特別な感情を抱くのも必然のように思える。過去のトラウマや父への思いから抜け出せない彼女はまだ少女なのだから。父の愛情を求める者として、二人をみている。片や上司、片や世の無残を伝える悪魔、この世の現実を二分したような存在の間から世界をみる少女の視点から語られる物語…という見方もあるということか。

この当時、クロフォードのスコット・グレンは51歳、レクターのアンソニー・ホプキンスは53歳だ。今、わたしはこの二人の年齢に近いところにいるのだが、ここからみる28歳のジョディ・フォスターは、少女めいたところを始め不安な様子も戸惑っている姿も、とても可愛らしく、そりゃ守りたくなるよな、という感じ。二人の男の感情は、この年になると本当に実感出来るものになる。年を取るだけで、映画の見方は変わる。

この映画の中で、ホッとできる場面が、遺体の口の中から見つかった虫の蛹が何かを調べにいくところ。男が二人、虫でチェスだか何かをしているのも可笑しいが、このうちのひとりがクラリスに誘いをかけてくる。ここでのジョディの表情は、劇中一番の笑顔で、自然なもの。まんざらでもなさそうで、相手よりも優位に立っているからこその、リラックスしきった明るさがあって可愛らしい。
猫好きとしては、猫が見守る映画としても記憶しておきたい。バッファロー・ビルが議員の娘をさらう場面では、その様子を窓から猫がみていた(かもしれない)という描写がある。さらに物語の結末へと至る局面を導くのも猫であった。最初に殺され、3番目にみつかった被害者の家で、オルゴールやら何やらを触っているクラリスの後ろで、猫がニャアと鳴く。そちらに行ってみると、そこにトルソーがあり、クローゼットを開けると…。猫がすべてを見守っているのか。我々は猫に導かれているのか…。犬も出てくるが、もっと重要な役割。議員の娘、さんざん犬のことののしってたのに、ちゃんと抱いて家から出てくるところに笑った。よくよく考えれば、「バッファロー」・ビルという犯人の名前、タイトルにもなっている「羊」、犯人の心理の現れである「蛾」など、動物の存在があちこちにある。しかもドラマの頂点には、人を食う男がいる。レクターという食物連鎖の王が。

原作小説にも描かれているが、いわゆる叙述トリックを、映画でも仕掛けている。クロフォードたちが犯人宅へ向かう。地下ではバッファロー・ビルと議員の娘との攻防が展開。FBIが玄関ドアに到着。地下で来客を伝えるベルが鳴る。バッファロー・ビルが、はいよと外へ出ると…というここは本当に見事だと思う。窮地に陥ったことが、観客にだけわかる瞬間のひやりとした感覚が凄い。このあとの対決の緊迫感も尋常ではない。地下の煉瓦作りの壁が、レクターのいる監獄の壁と似ているのも偶然なのか意図されたものか。まがまがしい感じが出ていて恐ろしい。

クラリスとレクターが会話する場面は、基本的に双方をカットの切り替えしでほぼ正面からとらえる撮り方がされていて、視線は直で相手を射抜くような強いもの。この切り返しは段々過剰になって、移送後、最後に二人が会う場面では、顔が画面からはみ出している。のめり込んでいく感情があふれだしたようで凄い。他にも、クラリスが地元の警察官たちから好奇の目でみられる様子を始め、居心地の悪い、落ち着かない視線にさらされている感じが濃厚。これもまたクラリスの孤独と疎外感を感じさせる。それがクライマックスではまったくの闇の中に置かれ、犯人からはその姿が丸見えになるという、「さらされる」ことの極限まで行きつくのも、よく練られてるなあ、とただただ感心するばかり。

26年経っても、未だ色褪せないサスペンス映画。「セブン」もちょっと前に見返したんだけど、そっちもやっぱり未だ面白かった。時間経過に負けない映画というのはあって、そういうものだけが映画の歴史に残っていくんだろう。

原作も素晴らしい…というか読んだのもずいぶん前だ。読み返すのもいいかも。