眠りながら歩きたい ver.3

映画、ドラマ、小説、漫画などの感想や、心に移りゆくよしなしごとについて書きます。

マンハッタン無宿 感想

〈あらすじ〉アリゾナの保安官補が、容疑者引き渡しのためにニューヨークへ。強引な方法が祟ってか、隙を突かれて容疑者は逃走。赤っ恥をかかされた保安官補は、意地となって標的を追いかける。

例によって、とりとめもない感想を。

この作品の3年後に「ダーティハリー」が作られるのだが、後の洗練の度合いがけた外れで驚かされる。たった3年の間に、映画の作り方が変わってしまっている。セリフよりも画で語り、より空間を意識した画面作りがなされ、暴力描写は激しくなっている。「ダーティハリー」の原型とも言われる映画だが、久しぶりに見て、まず驚いたのは思っていた以上に古く感じたこと。画面の色合いが、放送素材の加減によって古く感じさせることはあるけれども、それだけではない。セットの組み方がせせこましく、奥行きのなさを感じさせること。警察、病院、スーザン・クラークのアパート、ドン・ストラウドの母の部屋など、いずれもスペースにあまり余裕がなくて、小さな空間ばかり。それほど裕福な人間が出てこないこともあろうし、キャラクターに合わせてでもあろうし、予算の都合でもあろうけれども、テレビドラマのような安っぽさを感じさせる。それから人物の出し入れの呼吸。人が接する場面は、頭から最後まで省略しない。ひとつのシチュエーションを最初から最後まで見せる感じ。会話が、物語を進めるベースになっているので、常に誰かが話しているという見せ方。カットバックなどもあまり使わない。それほど重要とも思えないところに変に丁寧に時間が割かれていたりする。イーストウッドとクラークのやりとりのくだりは、クーガン保安官補のキャラクターを見せるためではあっても、ランニングタイム94分の映画としてはかなり偏っている。二人の関係が、ドラマ上、重要になるわけではないのに。もちろん、68年当時でももっと緊密な映画はあったので、この当時はこんなものだった、というのは乱暴なことである。今だっていろんな映画があるのだからして、簡単にひとくくりなんて出来るわけがない。ただ、ドン・シーゲルの後の洗練を思うとき、この頃はまだ前の時代の映画文法に則っていたのではないか、ということである。

冒頭では、妻を殺して逃げた先住民の男をイーストウッドがつかまえる様子が描かれる。ラロ・シフリンの音楽も軽快に、明らかに現代の西部劇的な雰囲気。

美人人妻をバスタブに引き込む辺りとか、まんま西部劇。アリゾナからやってきた男が、ニューヨークで田舎者として扱われるのは定番ではあるが、面白いのは彼がそんなものを物ともしないことである。特に女性に対して。クラークをくどくためにぐいぐい迫っていくあつかましさは、少しは真似してもいいのではないかと勘違いさせるくらいに素晴らしい。とっつかまえるべきドン・ストラウド(この頃からゴツイけど、まだ可愛らしさもある。ちらりと見せる狂気とナイーブさの狭間の表情がいい)の愛人というか情婦というか、フリーセックスの時代末期なのでそんな言い方もどうかと思うけれども、その仲間であるティシャ・スターリングともよろしくやってしまう。アリゾナの田舎者という、都会人にとってはマイナスにしかならないようなところが逆に強みになる面白さ。現代人で、この傍若無人さでは、かなり面倒な人になってしまうだろう。旧時代(西部劇の時代)から抜け出してきた男ゆえに出来る行動で、これも一種のファンタジーに近い。

そんなのんきな見方の一方で、当時のヒッピーやらサイケやらの風俗、LSDに溺れるバカな若者に対する、旧時代人の怒りが噴出した映画のようにも思える。旧時代人の考える「男とはこういうもの」宣言。そこに、実はそんな人を揶揄するような視線をみることも出来るのだが、映画自体は最後、イーストウッドの無茶さを認めてしまう。バカにしながらも、そんな強引さに対する憧れめいたものがあるのかもしれない。

あまりカラフルな色合いがない映画で、意識的に地味な色を配したのだろうか。あくまでも荒野をイメージさせる、現代の西部劇ということだったのか。そう思えば、セットの作りも西部劇の雰囲気であろうとしたために、古い感じがしたのかも。イーストウッドは、テンガロンハットにカウボーイブーツ、あとループタイ。ループタイって年配の人がするイメージだが、これはどういう意味合いなんだろうな。とことん田舎臭いことの強調なのか。それとも、アリゾナでは一般的なのか。

冒頭部では、先住民の男に対して、かなり無慈悲な扱いをするイーストウッドだが、映画の最後では、ストラウドにも煙草を一本くれてやる。哀れみがかつて悲劇を招いたことが、イーストウッドにとって苦い記憶になっていることが語られていた。が、この最後を見るに、犯罪者に対しても煙草一本程度の慈悲はかけてやってもいい、という変化が起きたということなのだろう。変化をもたらした者は、おそらくクラーク。もしかすると本来は、彼女とのやりとりは、もっと長く、重要なものだったのかもしれないな。ラストで、クラークが駆け寄ってきて何か話すのだが、カメラが遠くて何を言ってるのかは判らない。笑顔で大きく手を振る彼女の姿からは、この別れは悪いものではないらしいと思われるが、説明がないのでなんだか宙ぶらりんのまま。ティシャからイーストウッドと寝たことを聞かされて、明け方4時にどなりこんで来るクラークが可愛らしいのだが、二人の関係がどうなるのやら、よく判らないのも味わいだろうか。映画で描かれなかったところに、思いを馳せてみるか。あ、ティシャがあの後どうなったのか判らない。あれだけ後半を引っ張ってくれるのに、あれでおしまいとは勿体ない。

イーストウッドに「スパゲティが愉しみだ」と言わせたり、クラブの場面で「タランチュラの襲撃」と思われるワンカットを入れてみたりという楽屋落ちみたいな遊びがあるのが可笑しい。「チャーリーズ・エンジェル」のボスレー役だったデヴィッド・ドイルが悪役出てているのも懐かしい。昔見たときは、ボスレーでは見せない悪い顔に驚いたものだった。あと、シーモア・カッセルが出ていたのは知らなかった。若くてチャラチャラしている。スーザン・クラークの乳を揉むという不埒なまねをして、イーストウッドに叩きのめされる。結構豪快に吹っ飛んでいるのだが、若さゆえ、という感じで微笑ましい。

あとそうそう、アリゾナの美人人妻ミリーは、メロディ・ジョンソン。

あまり出演作がないようだ。他の映画、見る機会あるか?all cinemaには「マンハッタン無宿」含めて6本載っているけれど、「まら騒ぎ」というのは同名の別人だろうから除外するとして、「縛り首の三人」「シカゴ・シカゴ/ボスをやっつけろ!」「暗黒街の特使」「ジェイソンⅩ」…。どれもチョイ役かな。「ジェイソンX」は見てるけどな…。「シカゴ・シカゴ」は、未公開だけどノーマン・ジュイソン。「暗黒街の特使」は、エルモア・レナード原作でリチャード・クワイン。メロディ・ジョンソンとは関係なく、みたいよ。で、他には何かないのかと探していたら、今はメロディ・ジョンソン・ハウ(あるいはホウ)として作家になっていたんですね。1990年のアンソニー賞では、ジル・チャーチルやスーザン・ウルフと並んで新人賞ノミネート。エドガー賞処女長編賞でもノミネートされている。翻訳はされていないようで、おそらく他の著作も、日本では一冊も出ていなさそう。

2013年当時はこんな感じ。お年も召してふっくらしているが、さすがにきれいですな。

監督 ドン・シーゲル/COOGAN'S BLUFF/1968/アメリ